分析

2023年12月21日木曜日

言語化できん指導者は要らん

あらかじめ言っておくと政治の話ではない。
スポーツ指導において、まだ暴力が存在するのかという呆れから今回の更新に至る。

2023年12月15日の日付の記事だが、またもこういう事件が起きたらしい。
というか、これを書いている今も世界のどこかでは同様の事が起きているのだろう。

神奈川 高校バレーボール部監督 複数部員に体罰など 懲戒解雇

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231215/k10014289291000.html

時が経つとリンク先が消えるかもしれないので、以下に一部引用を記載する。

神奈川県内にある高校の女子バレーボール部の監督が、複数の部員に対し首を絞めるなどの暴力をふるったり暴言を吐いたりしていたことが、高校などへの取材でわかりました。学校の調査に対し監督は体罰や暴言があったことを認め、高校は懲戒解雇の処分にすることを決めました。
NHK NEWSより





過去記事を辿れば多分同じ事を何度か書いているとは思う。
どうやら今回もかなり名の知れた指導者のようだ。だが、ダメなものはダメ。

近年日本のバレーボール界では指導から暴力をなくしていこうと積極的に動いているようだ。
バレーボールの世界から
暴力・体罰・ハラスメントを撤廃する。

いや、だからこそ発覚して問題化したのかもしれない。
自浄作用が業界で働いている証拠とも思えなくもないし、それでもなお、未だこんな事があるのか?という疑問も出てくる。

そして、この手の報道でよく出てくる言葉に、勝利至上主義という言葉がある。

だが、これには強い違和感を感じる。

そもそも強豪校(チーム)の指導者はたとえ勝利したとしても、内容が悪かったら厳しい指導を行うのが普通だろう。
勝利至上の指導ではない。

個人的な経験で恐縮だが、指導した学校から名選手を何人も輩出したという指導者の元に居た事がある。
朝から晩まで部活漬けの日々、とある大会時に顧問に言われたのを今でも覚えている。
「お前の行動で、指導者の質が問われてしまう」

直接的暴力は少なかったが、暴言は常に受けていた。
もっとも剣道という競技の特性上、暴力なのか指導なのかむずかしい場面も多かった。
自分でも不甲斐ないと思える試合の後だった。大会だろうがお構いなく通常通りの練習が試合後待っている。
一人集中練習が始まった。おそらく2時間はやっていただろう。毎大会誰かはこの洗礼を受けている。そんな環境だった。この大会は私が悪目立ちしたのでターゲットになった。
日々の練習で積み上げたものが、わずか2時間で改善するとホンキで考えているのは到底思えない。
明らかに指導者の機嫌を損ねた、いわゆる腹いせの行為だ。いじめの構図と何も変わらない。

足の裏の皮がめくれ、運動場の床がが血だらけになった状態でなお、一人シゴキを受けながら
「お前は壊れても(今の練習を)やりつづけろ」
結果私は復帰までに時間を要し、辞める決意をした。せざるを得なかった。

顧問のメンツのためとも聞こえる発言、選手の体など一切考慮に入れない行為。
これらのどこが勝利至上なものか。まして怪我を悪化させる指導者が真に勝利を目指している等とはとても考えられない。これで勝てというのなら、もはや狂っているだろう。

驚くことに怪我の悪化は選手の責任だという理論を持っているのだから、タチが悪い。指導者だけでなくてもこの価値観を持つ人間は一定数いるから驚く。
管理しきれず体壊わす等は論題だろうが、練習時の怪我は指揮者の責任だろう。

武道系は今ではどういう状況だろうか。
柔道のように国際化が進んだ競技からは暴力が少なくなっていると信じたいが。

日本のスポーツ教育は明治時代の富国強兵のスローガンを背景とした、軍人育成を教育(今でいえば体育の授業が該当するのだろう)に持ち込んだため、軍人が指導者となるケースが多く、結果、軍隊的指導が根付いたという説がある。

加えて、個人的には儒教的な思想の影響もあるのではないか?とも考えている。

雑に言ってしまえば、「年長者を敬う」ってやつだ。

これが問題化すると思われるのが、例の歌劇団でのいじめ問題や、プロ野球界で発覚したパワハラ・・・もとい、暴力事件ではないかと思う。
先輩・後輩というのは、欧米ではあまり見られない関係性と聞いた事もある(だが、向こうは向こうで人種差別等が根深そうではあるが)ので、儒教的発想ではないか?と考えている。

が、何が背景かはもうどうでも良いし、この話の中心にしたくない。

私は子供のころから「敬う」のと「奴隷みたいになる」とでは違うのではないかと思っていたが、どうもその辺の堺が認識できない方々が大勢いるようだ。

スポーツに限らず、文化的なもの、もっと言えばごく一般の企業・・・職場における指導者的立場・・・監督、上司、コーチ、マネージャー(スポーツだと何故か立場が一番下っぽくなっているようだが)、そして先輩という立場となった者たち・・・こういう人達か。誰でも指導者的立場になる土壌が存在する。

そして、どうも指示、指導の際に物事を言語化できない残念な人達がいるようなのだ。
加えて感情コントロールもできない。やろうという気もないのだろう。
周囲の人を傷つけている事にも気づけないのだ。
そうやって人の才能に気づかず、踏みにじっている者もいるだろう。

これこそが問題なのではないか。

こういう人たちが、(立場として)人の上に立って良いハズが無い。

例えば耳が聞こえない、目が見えない等のハンディキャップを抱えている人達も指導しなければならないケースでは言語化だけが正解ではないだろう。

だが、それでも暴力、暴力的な発言が許される理由が見当たらない。

スポーツだけではない。

例えば、とある映画監督の話がある。

明確にOKを出さず、何度も俳優たちに演技をさせ、良かったのか、悪かったのか、何をどうすれば良いのか、具体的指示も出さず、ただ、ひたすら演技を強いてくるという。

時に何十パターンも撮影し、その中から後でOKテイクを探していくのだとか。

どんなに過去名誉ある賞を受賞しようとも、こんなやり方は周りの人間の心を削っていくだけだろう。
肉体的な暴力ではないが、このようなやり方は個人的には精神的な暴力だと思っている。

そんな話や、いろんな分野における強豪集団の話を聞くたびに思う。

監督や顧問が凄いのではなく、選手や俳優、周りのスタッフが凄かったのでは?と。

いや、監督が育てたからだという話も当然でるだろう。

だが、常に勝つ監督、指導者はまずいない。
真に人を育てる名人なら、常勝集団を育て上げるはずだ。
作品なら常に名作ができるはずだ。

もちろん育成の達人が何人もいて、それぞれが各地で各集団を育て上げ、そういった集団同士がぶつかりあった結果、勝敗や優劣が決まっている。

だが、勝敗や優劣の決め手は何か?

監督の采配?選手の質?特出したプレーヤーの存在?
複合的要因だろうが、絶対にそこに暴力的指導の存在が貢献って事はまずないだろう。
(体罰が弊害をもたらす研究はいくつも出てきているし、もはや周知のはずだ)

常に一定のモチベーションを持った人間ばかりではなく、そういった集団の指導には、強引な手法によって成長を促す事もあるだろう。
だが、その点をもって暴力容認に繋げるのはあまりに短慮すぎる。

そもそもモチベーションが高くない集団にはそれに適したレベルの環境でやらせた方がむしろ良いはずだ。

丁度ドラマが人気なので、あえてこういう書き方をするが、下剋上云々が美談なのは、プレーヤー自らの意思が優先された結果であり、万年弱小と言われても平気な集団のままだったとしても、当のプレーヤーたちが満足し、楽しめて、良い学生生活を過ごしているのであればそれはそれで良いのだ。より良い環境、生活への導きはあって良いが、それが暴力によっては絶対にありえない。
そこに不満が出る少数のプレーヤー達はその環境から出れば良い。義務教育課程でなければ猶更選ぶのは当人達であり、選べるようにするのが大人の役割だろう。
限界はあるだろうが、それでも暴力を認める要因は見つからない。

強豪チーム、名門校、名指導者、名監督。
一度ブランド化した人、集団には労せずに人が集まってしまうだろう。
残念ながらそれは仕方がない。
そして一定以上の質は担保されてしまうのだ。
だが、担保しているのは集まってくる人達で、集めた人や集団側ではない。

もっとも、そこに胡坐をかいた結果、組織として腐敗するのに気づけない場合もある。
某大学で起きた違法薬物の事件がそういう事例ではないだろうか。だが、これは今回の話とは全く違う話でもある。

適切な指導者とは、指導対象と向き合い、各人の個性と集団とのバランスを考え、(すでにある集団の)価値を押し付けず、言葉や表現で対象者を納得させるスキルを有する者だけで良い。言語化とはそういうスキルを言っている。
それがない者を指導者に据えてしまうから暴力、暴力的発言、威圧的な行為に頼る輩が後を絶たない。
さっさと人の上という立場から去り行くべきだし、周りもそういう人間をその立場に置いておくべきではない。
自覚している人がいるなら、さっさとその立場から降りるべきだ。

今20代を中心に日本のスポーツ競技が世界的に結果を出しているように見える。

今年日本中が熱狂したのは記憶に新しい。
野球、サッカー、バスケットボール、バレーボール。

国際試合だけではない。
夏の甲子園で結果を出した学校はどういうチームだったのか。今年一年だけで決めつけるのは早計だが、それでも暴力が指導の中心ではないチームで結果は出た。

細かく分析すると違うものが勝利の主な要因だったりするのかもしれないが、スポーツ指導に暴力は要らないという風潮が強まった時期と重なってきているように自分には思える。

選手たちには自信と失敗を恐れない姿勢。

これは私のようなアラフィフおじさん世代なら当たり前だった、「失敗時に異様に責め立てる文化」では育たない精神から来ているのではないか。

成功に対する賛辞。正当な評価。
失敗体験よりも成功体験による心身の成長を促す。
人の指導とはそういうモノが必要だろう。

暴力は絶対要らない。

同時に。
それはそうと、時としてわが子に声を荒げてしまう自分がいる。
ひとりの親として言語化が全く足りていない。

親という立場は辞める事は許されないし、あってはならない。そのつもりももちろんない。
責務は全うしたい(辞めない指導者はこういう発想なのだろうか)。

大きな声を上げたわずかな時間で何が変わるというのか。
反省の日々である。

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